「暴力装置」としての「カメラ」

こんにちは、arrowです。

前回、佐藤真監督のドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』を例に、

映画(映像)は、

被写体を見つめる撮影者のまなざしと、

撮影者を見つめ返す被写体のまなざし、

その応答=人と人との「関係性」によって読み解くことができる、

というようなことを書きました。http://pencre.com/hope-camera/

暴力装置としてのカメラ

そして、3年間阿賀に生きる人々の生活に寄り添いながら映画を(田畑の収穫になぞらえて)「穫(と)」った佐藤さんのように、

きちんとした「関係性」を築き上げることができれば、

その時無機質な「カメラ」は「希望の鏡」になる、とも。

 

では、きちんとした「関係性」を築き上げることなく、
被写体に撮影者が一方的に搾取するようなかたちで「カメラ」を向けた場合、

どんなことが起こるのでしょうか。

「希望の鏡」であったはずの「カメラ」は、

一瞬にして、

恐ろしい「暴力装置」へと姿を変えることでしょう。

私たちが「カメラ」を恐れる理由

例えばあなたが電車に座っている時、向かいの席の見知らぬ人間が、
唐突にiPhoneの録画機能であなたを撮り始めたらどう思うでしょうか?

十中八九、嫌な気持ち−−羞恥心、怒り、恐怖、困惑など−−をおぼえるでしょう。

予期せぬ大事件へと発展してしまう可能性だってあるかもしれません。

手のひらサイズのスマホカメラでさえそうなのですから、
これをテレビカメラや映画撮影用の大きなカメラでやられたら
堪ったものではありません。

カメラとは、
構えた瞬間から、どうしたって撮影者と被写体の間に
「上下関係」をつくりだす「権力装置」でもあるのです。

確かな「関係性」を築き上げないまま、
いきなり無遠慮にそれを向けることは、

強者による弱者からの一方的な「搾取」−−或いは「蹂躙」−−に他なりません。

だから私たちは、本能的にそれが向けられることを恐れるのだと思います。

更に厄介なのが、インターネットの普及と相俟って、

「搾取」した側がそれを簡単に世界中に広められるようになってしまったこと。

誰もが簡単にそれを見れるようになってしまったこと。

 

その事実が、「カメラ」を「権力装置」から、

もはや「暴力装置」へと押し上げてしまっているのです。

 

社会問題化している「リベンジポルノ」などがその際たるものかもしれません。

 

「無自覚」な「暴力装置」

 

テレビのチャリティー番組に、

障がいのある人たちを出演させ、

〝感動モノガタリ〟を「演出」することに賛否両論巻き起こっています。

私自身、仕事で障がいのある人と接する機会が多いため、
思うところは色々ありますが、

それが正しい正しくないなどということをここで書く気はありません。

しかし、あくまで「映像」という、、、

何度も述べている「撮影者と被写体」の「関係性」という観点から見て、

「否」と言わざるをえない部分は多々見受けられます。

 

一部ネット等で〝炎上〟しているように、

「障がい者を貶めるためにやっている」
などと言うつもりは毛頭ありませんが、

カメラの恐ろしいところは、

例え無自覚であったとしても、

いや、無自覚だからこそ
「権力装置」「暴力装置」としての精度を増してしまうところにあります。

趣向を凝らした残虐映画よりも、

中学生の撮ったいじめの動画の方がはるかに残虐であったりするように・・。

 

そしてふたたび「希望の鏡」として

 

『阿賀に生きる』を監督した佐藤さんのように、、、
とまではいかなくとも、

「カメラ」の持つ力の大きさ、それを他人へ向けることの重大さ、危険性、

を正しく認識することは誰にでもできるし、

「映像」に関わる仕事をするのであれば欠かせないことだと思います。

 

それができれば自ずと「関係性」を重視した「いい映像」が撮れるようになり、

障がい者を扱ったチャリティー番組だって、

〝感動モノガタリ〟から〝心を揺さぶる物語〟になるかもしれません。

 

その時「カメラ」は「暴力装置」ではなく、

やはり「希望の鏡」としてあなたとわたしの間に置かれているのです。

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(arrow)

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