テレビ番組を見ていると、
ドラマはもちろん、バラエティでもドキュメンタリーでも、
「演出」の人の名前が出てきますよね。
しかも、最後のほうに。
「偉い人」「ベテラン」がする仕事、というイメージですが、
映像を「演出」するとは、一体、どういうことなのでしょうか。
演出の一番の仕事は「すべてを決める」こと
えん-しゅつ
1 演劇、映画、テレビなどで、台本をもとに、演技・装置・照明・音響などの表現に統一と調和を与える作業。
2 効果をねらって物事の運営・進行に工夫をめぐらすこと。「結婚式の−」「−された首班交代劇」
【演出家】
「演出1」を専門の業とする人。演出者。
(広辞苑より)
演出家とは、テレビ番組ならディレクター、
映画なら監督にあたる人のことです。
私にとって最もなじみ深いのは映画なので、
今回のタイトルはある意味
『映画を「監督」するということ』になります。
でも、テレビだろうと映画だろうと、
もっと言うと舞台だろうと、
演出家のやるべきことって
そんなに大差ないと思うんです。
私は、中学生くらいの頃から,
漠然と映画監督になりたいと思っていたのですが、
その頃の「監督」に対するイメージは
「すべてを決める人」というものでした。
そしていま、
実際に現場で映画監督の仕事を見たり、
また、小さい作品ながら自分で監督をしたりして思うことは、
そのイメージはあながち間違っていなかったということです。
そう、監督とは、演出家とは
その作品におけるあらゆる事柄を決める人──
決断を下す人のことです。
演出家に求められる、決断と取捨選択の能力
作品づくりとは、
大小様々な「決断」「選択」から成り立っています。
大きいところで言えば、
それが映画なら主役をどんなキャラクターにするか、
そのキャラクターを誰に演じさせるか、
どんな衣装を着せどんな場所に立たせるか、
台詞のニュアンスはどんな感じか、
その時カメラはどこに置くのがいいか、
ライティングのイメージは、編集は、効果音は、、、。
細かいところで言えば、
例えば脚本に
「水玉模様の服を着た女性が喫茶店でお茶を飲んでいる。」
と書いてあったとします。
書いてあることをそのまま撮っただけでは、
演出家とは呼べません。
ここに書かれていない様々な可能性を推察し、
画面上(フレーム内)で表現すべきことと、
敢えて表現せず観客に「想像」させるべきこと、を
取捨選択していくのが作品を「演出」するということです。
「水玉模様」とは、
赤の水玉模様なのか黒の水玉模様なのか、
「喫茶店」とは、
渋いマスターがいるような個人経営の店なのか、
ルノアールなのかシャノアールなのかはたまたスタバなのか、
「女性」は喫煙者なのか非喫煙者なのか、
「お茶」とはコーヒーなのか紅茶なのか、
ただ飲んでいるだけでスマホをいじったり本を読んだりはしていないのか、
店員を呼び止める口調は丁寧なのか横柄なのか、
そもそもこの「女性」はどんな家庭で育ち、
いまどんな人生を送っているのか、、、。
ほんの20字ちょっとのト書きからも、
これだけの選択肢が浮かび上がってくるのですから、
2時間の長編映画ともなると
「演出」という作業が容易ではないことが、
お分かりいただけるかと思います。
演出家は「なにもできない人」?
ただ、たまに誤解されるのですが、
演出家とは、監督とは
「すべてを決める人」であっても
「すべてができる人」ではありません。
いや、むしろ「なにもできない人」かもしれません。
突然ですが、
ワンピースという漫画がありますよね。
あの中で、海賊王を目指す主人公のルフィが、
魚人のアーロンと戦いながらこんなことを言うシーンがあります。
ルフィ「俺は剣術も使えねエんだコノヤロー
航海術も持ってねエし!
料理もつくれねエし!
ウソもつけねエ!
おれは助けてもらわねエと
生きていけねエ自信がある!」
アーロン「そんなプライドもクソもねエてめエが一船の船長の器か?
てめエに一体何ができる?」
ルフィ「お前に勝てる」
(尾田栄一郎『ONE PIECE』巻10(集英社)より)
ルフィの仲間である剣術使いのゾロ、
航海術士のナミ、コックのサンジ、
嘘つきのウソップが持つ能力を引き合いに出し、
逆説的に己の強み=「仲間がいること」を主張する
良いシーンだと思うのですが、
これを読む度にまるで映画監督のようだなと思わされます。
映画制作において、
例えばキャラクターの造形なら「脚本家」、
キャスティングなら「キャスティングディレクター」、
衣装なら「スタイリスト」、
撮影なら「カメラマン」、、、という風に
(ちゃんと予算があれば)各分野にエキスパートが配置されているわけですが、
彼らさえいればとりあえず映画はできてしまうんです。
監督なんていなくても。
海があって、風が吹いていて、
帆を張れればとりあえず船は動き出すように、、、。
演出家は 「監督」か「工場長」か
実際、ひと昔前と今とでは、
映画のつくり方、
映画監督の在り方というものは随分変わってきていて、
監督不在のまま作品づくりを行っているような現場もあったりします。
いや、監督もいるにはいるのですが、
そこで(プロデューサーから)求められているのは、
先に述べたような想像力を駆使した「演出」などではなく、
単なる「交通整理」の能力なのです。
限られた時間、限られた予算、限られた人員で、
そこそこの作品をつくりだすための流れを整える能力。
大事なのは才能を発揮しすぎないこと。
(才能のバックアップには時として巨額のお金が必要となるからです。)
それはどこか機械的で、
本来映画を作るうえで最も必要な筈の「創造性」とは
かけ離れたものです。
だから、そういう現場では
演出家は「監督」というより
「工場長」と呼ぶべきかもしれません。
そうして出来上がった映画は、
皆どこか似たり寄ったりで、
一応それなりの興行収入を納めてはいるものの、
てんで面白くありません。
「演出」には、
たとえばカメラマンの「撮影技術」のように
パッと見て分かるような凄さはないので、
現代の映画制作現場においては時に軽視されがちですが、
きちんと思考された演出が施されていない映像は、
肉体に魂が宿っていないようなものです。
監督「俺は撮影はできないんだコノヤロー
ライティングもよく分からねエし!
脚本も書けねエし!
台詞も言えねエ!
おれは助けてもらわねエと
生きていけねエ自信がある!」
プロデユーサー「そんなプライドもクソもねエてめエが監督の器か?
てめエに一体何ができる?」
監督「面白い作品をつくれる」
なんて、言えたらいいですよね、、、。
(文/arrow、イラスト/毛玉)