テレビ業界の裏話

テレビ番組の現代までの歴史を大局的にみてみる

テレビ放送が始まったのは、1953年2月。その半年後の1953年8月に民放での放送がスタートしました。

およそ70年の歴史のある映像メディアです。始まりから今に至るまで、おおざっぱに辿ってみましょう。

 

テレビ創世記 1953年~1960年ころ

 

1953年2月1日にNHKでテレビ放送がはじまりました。画面は白黒です。テレビの価格はおよそ30万円くらい。当時の会社員の月給は3万円くらいの時代です。

8月に民放でも放送がスタート。このころの番組は、ニュースやクイズ、ゲーム、歌謡ショー、人形劇。この年の年末に、紅白歌合戦が放送。

テレビは、駅前や公園、町の盛り場(!)など街頭に設置されていました。プロレスや野球中継では、人だかりができて身動きできないほどの一大エンターテイメント。

番組のバリエーションも増えていきます。ドラマやトーク番組、料理番組も始まります。ほとんどが生放送。段取りがおいつかず、ハプニングがつきものでした。

高額なテレビですが、時代が高度成長期に入ると、家庭で普及されるようになります。それを加速させたのは、1959年の皇太子殿下のご成婚パレード。

この年、地方局が21局開局される開局ラッシュでした。

そして、この年に画期的な番組が始まります。それは『兼高かおる世界飛び歩き』(『兼高かおる 世界の旅』の前身番組。世界の旅は1990年までつづいた長寿番組。

ジャーナリストの兼高かおるさんが、プロデューサー、カメラマン、作家、ナレーターをこなしました)。

当時画期的だったのは、当時はほぼスタジオ撮影、生放送が主流でしたが、この番組は、カメラをスタジオの外に持ち出して収録していたからです。

しかも、海外旅行が一般的でない時代に、世界中を旅する紀行番組。この番組をみて、あの国に行ってみたい、実際に見てみたい、と多くの人の好奇心をかきたてました。

翌年には、テレビ・冷蔵庫・洗濯機が「三種の神器」と言われるように。

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テレビ発展期 (1960年ころから1980年ころ)

 

1963年に、カラーテレビが発売。白黒テレビは1600万台、対するカラーテレビはわずか5万台。翌年1964年に東京オリンピックが開催され、さらに普及が進みました。

このころのテレビ番組は、ほとんどがテレビ局で制作されています。

民放では、制作を請け負うテレビ局の系列会社がぼちぼちと誕生しています。1955年にTBSビジョン(現 TBSスパークルス)、1958年にテレビ朝日映像、共同テレビ、1970年に日本テレビエンタープライズ(現 アックスオン)など。

生放送やスタジオ収録などの主だった番組はテレビ局制作で、補足的なところは系列会社が制作していたと思われます。

 

1960年に入ると、収録方法が変化しはじめます。それまでは、撮影カメラと録画機械が重くて動かすことができず据え置きだったのが、軽量になり、カメラを動かすことができるようになります。

それまではスタジオや公開録画ができるホール、プロレスや野球のスタジアムなどカメラが設置できて、照明をたく電源がある、など条件が揃った場所でしか撮影ができませんでした。

人が持てるくらいの重さになったことで、外にカメラを持ち出すことができるようになり、録画することが可能になります。

その方法はENG(Engineer News Gathering)と称され、今も継承されています。外での収録や取材に行くことや、カメラと音声と照明のチームのことをENGと呼んでいます。

 

1970年ころになると、テレビ局から独立した制作会社が登場します。テレビ局の制作マンが、テレビ局の意思に左右されない番組を作りたいと思うように。局のディレクターやプロデューサーが独立し始めました。

1970年前後の時代背景は、学生運動が激化し沈着していった時代。大きな事件の現場にテレビクルーが張り付き、取材班だけではなく視聴者も目撃者となります。

そのターニングポイントの事件が「あさま山荘事件」。テレビに映し出されているのは山荘の外観。いつ突撃するのか、今か今かと国民はテレビの前で見守っていました。隊員たちの食事風景が映し出されたワンシーンがこれまたテレビの価値をあげることに。その食事はカップヌードル。あれはなんだ!?と国民が知ることになり、テレビで告知する影響と価値が企業に知れることになったのです。

 

学生運動が沈静化されていくのと入れ替わりに、テレビでバラエティ番組が登場し始めます。このころのバラエティ番組は、コント、トーク、歌謡、クイズなどのバラエティに富んだコーナーが一つの番組にまとめられていました。

 

ザ・ドリフターズの「8時だよ!全員集合」や萩本欽一さんの「欽ちゃんのどこまでやるの」が始まり、高視聴率を打ち出していました。

番組から人気アイドルが登場するのもこのころ。夜の8時はゴールデンタイム。家庭ではテレビの前に家族が揃っていた時代です。

CMを出す企業も増えていきました。

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テレビ成熟期 (1980年ころから2000年ころ)

 

1975年、画期的な機械が誕生します。テレビ創世記は白黒テレビ、成長期はカラーテレビ、成熟期のこの年代を象徴するのは、家庭用ビデオデッキです。

テレビ放送はワンチャンス。番組を見逃したら、もう見ることができません。

同時間帯に見たい番組が重なったり、放送時間に帰宅できなかったりすると悔しい思いをしたり、翌日の話題についていけないなど時代に置いてけぼりにされた感じがありました。それを解消したのがビデオデッキです。

 

撮影現場でも撮影機材は進歩。撮影と録画機能が別々だったのが、撮影と録画が一体型になり、収録するテープも小さくなってきました。より可動的になり、旅番組や密着ものなどが増えていきます。テレビ番組は、それまでにはない視点やテーマを見つけ出さねばなりませんでした。

 

景気が高まるにつれて、CMを出す企業が増えていきます。CM収益があがり、番組制作費は潤沢になっていきました。

生活用品、食品、家電、医薬品、ハウスメーカーなど、大企業はこぞってCMを出していきます。レギュラーの番組を企業一社が提供する、一社提供の番組も増えていきました。

制作費が潤沢にあることで、テレビ局は番組の管理をし、制作は制作会社に委託する関係が定着していきます。テレビ局でプロデューサーやディレクターが独立する以外に、制作会社のプロデューサーやディレクターたちも独立しはじめて、制作会社が一気に増えていきます。

テレビ番組は、お笑いや歌謡の明るいバラエティ番組だけではなく、ダークサイドな面を追いかけるような番組も登場します。

テレビ局が求める映像に、制作会社は応えようと画策し、撮影したいシーンをディレクターがつくってしまうことが社会問題にもなりました。

成長期には、お金が集まり影響力が大きい一大メディアになったテレビは、テレビ局、スポンサー企業、テレビとスポンサーをつなぐ広告代理店、制作をする制作会社が複雑に絡み合って、テレビに関わる人や組織が膨大に膨れ上がっていきます。

バブルが崩壊しても、その影響はまだテレビに届かず、対岸の火事のようでした。なぜなら、テレビはまだ4大メディアのなかでも抜きんでていたからです。

 

テレビ停滞期 (2000年ころから現在)

 

2000年ころになると、パソコンが一般家庭に普及しはじめます。

2005年にYouTubeが公式にスタート。2010年ころから、映像は見るもの、から、自分で撮れるもの発信できるもの、へと認識が変わっていきます。映像というものが受け身だったのが、能動的になっていきます。

テレビの鑑賞方法も変わり、テレビの価値観が変わっていきます。

テレビよりも楽しいもの、面白いものを見つけ始めた若い世代が、テレビから離れていき、いかに若い人たちへテレビ番組を届けるのか、という動線をつくらなければならない、とテレビ局の使命が変化してきました。

テレビは地上波だけではなく、BS、CS放送もあり、オリジナルの配信番組、YouTube番組と、広がっています。

それにも関わらず、テレビ局員の人数は極端に増えているわけではありません。制作会社から若い人たちが独立をし、小規模な会社がどんどん誕生しています。

 

さて、これから、テレビはどうなっていくのでしょうか。

テレビ局にはこれまで放送されてきた番組がおよそ70年分ありますし、日々、放送をしています。日々蓄えられていく映像財産。今まで培ってきた放送技術、信頼性の高い番組制作力は、テレビが優っています。それらを上手く活用していくテレビ局が、覇者となるかもしれません。

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テレビ制作歴25年。テレビの業界の内側と、テレビ番組の裏側をわかりやすく発信していきます。


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