こんにちは、テレビの派遣会社ライズプランニングのimacharinです。
今回は、私が制作会社に入社時の話をしていこうと思います。
1992年に初めて就職した制作会社は、
放送作家とリサーチャーと制作スタッフが60人くらい所属していた、
中堅どころの番組制作会社でした。
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その会社は、人気の放送作家を抱え、成長中の時期でした。
バブルが崩壊したとはいえ、その余韻がまだ残っている時代です。
そのころ、ADで入った当時の話をします。
番組制作会社に就職を決めた理由
なんでテレビ番組制作を仕事として選んだのか、というと、
就職活動中に、自分が楽しいと感じながら成長していける仕事をしたいと思ったからです。
正直言えば「遊ぶ感覚で働きたい」。
でも、就職活動で出会った企業は、
日本経済を支えるために…とか、発展のために…とか、このブランドをもっと広めて…とか、
なんとかかんとか説明するわけです。
でも、実際どんな仕事を任されるのか、よくわかりません。
「遊ぶ」なんて言っては叱られそうだし、
毎日満員電車に乗らなきゃいけないのかな、
組織の一員になれるのだろうか、
社会人なんてものになじめるんだろうかと、
くすぶっておりました。
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番組制作会社にたどり着くまでの就活
内定をいただいた企業から、研修やらイベントやらどんどんスケジュールを入れられていき、
だんだん、ぞわぞわしてきます。
このままだと、その会社の入社式に出席しなければなりません。
肌寒くなってきたころ、友人が番組制作会社に入ると聞きました。
そのときに初めて、制作会社っていうものがあって、
テレビ番組をつくっているのは、ほとんどが番組制作会社だということを知ります。
テレビの世界というのは、華やかで派手な、虚構の世界だろうな~、
内向的な性格の自分には無理だろうな~
と思い、心になんとなくひっかかりを感じていました。
で、結局、卒業しても就職しませんでした。
すこし、悩むことにしたのです。
今思うと、なんてのんきな…と、蹴とばしてやりたいくらいです。
とはいえ、さすがに3・4か月もすると、どこにも所属していない心もとなさを感じ始めました。
何者でもない、ふわふわした感じ。
このままいけば、社会の脱落者です。
そこで、どこでもいいからまず、働こうと、求人雑誌を買い求めました。
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番組制作会社の求人と面接
そこで見つけたのが、番組制作会社の求人でした。
当時「フロムA」という求人雑誌がありました。求人雑誌の中でもよく知られていたアルバイト情報誌でした。
そこで見つけた「制作会社のデスク募集」。
どんな番組を制作しているかも知らない、聞いたこともない会社。
その会社は、とてもとても古いマンションに事務所をかまえていて、いきなり、面接。
プロデューサーが3人。
3人とも180センチくらいあって、肩幅も広く、でかいオッサンたちでした。
狭い会議室では威圧感がハンパありません。
でも、このオッサンたちは、就活中に見たどの男の人たちとも違い、自由に生きている感じがしました。
ポロシャツにパステルカラーのジャケット、チノパンやジーンズにラフなシャツ、サングラス、ヒゲ…
彼らは、お互いに「ちゃん」付けで呼び合っていました。
世の中にはこういう恰好で働いているオトナがいるのか、
これが業界人といわれる人種なんだと思ったのです。
仕事の内容は全くわかりませんでしたが、今まで出会ったことのないオトナを見て、
こういう人たちの中でなら、働くことができるんじゃないか、
これで脱落せずに済むかも、と感じてしまったのが、運の尽きでした。
とにかく社会的な居場所を確保した!と安心感をもちつつ、AD生活がスタートするのですが、
それは悲惨な生活の始まりでした…。
番組制作という初めての世界
なんの予備知識もないまま、入社したその制作会社。
社長は放送作家で、誰もが知ってる動物ドキュメンタリーを担当。
所属している放送作家は、バラエティ番組やクイズ番組、ラジオ番組の台本を書いていました。
人気番組を支えている人の存在を、初めて目の当たりにしたわけです。
制作のほうは、というと、制作部門ができたばかりでしたが、
ドラマを制作していました。
「こんなボロマンションの事務所なのに、ドラマやってるのか……!」
そのギャップにおののきました。
しかも、なんと、ゴールデンタイムの連続ドラマで、当時の人気俳優が総出演していました。
私が入社した時期には、収録はほとんど終わっていたので、
制作チームは、「やり遂げた」感を満喫していて、「オレたち、イケてる!!」と思っている節がありました。
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制作の仕事でつらかったこと
ドラマが一段落したその後、制作仕事が何もない状態になってしまいました。
仕事のない会社に、仕事のできないワタシ。
周りも、自分も、何もすることがなく、ぼおっと過ごす日々でした。
忙しいのもつらいけれど、仕事がないというのも、つらいものです。
で、ようやく振られた仕事というのが、社長の手書き原稿を、
ワープロで清書するというものでした。
92年当時、まだ、PCはありません。やっと、ワープロが普及しはじめたころでした…。
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